●徒然なるままに Part1

TOPページに戻る

進む→


2002年1月15日:今年こそ咲かせるぞ!

 ヒマラヤの青いケシ、メコノプシスの株がやっと届き、植えつけました。

 3年目の今年は2株用意して、迷った場合に条件を変えてやってみようと思っています。
 ただ、昨年は開花見込み株という、すでに少し芽の出てる苗でしたが、今年はオランダ生まれの休眠株なので芽が出るかどうかすらちょっと怪しいスタートです。
 去年の失敗から、遅くとも6月初旬には開花させないと暑さに耐えられないことがわかったので、できるだけ早い時期に大きな株にする必要があります。
 一般的に春に咲く植物は暖かくなるだけで咲くのではなく、いったん寒さを経験しないと咲きません。
 メコノプシスも雪に埋もれコチコチに凍結した土から芽を出してくる植物ですから、いきなり温室に放り込んでも咲かないでしょう。
 夏に冷蔵庫に入れておいた休眠株を秋に出してきて咲かせる(春が来たと勘違いさせる)という凄い技で咲かせたという話もあります。
 一応、策がないわけではないのですが、どうなることやら・・・。

 ちなみにそれぞれの株の記録を取る為に名前を付けました。
 左の鉢が「助さん」、右の鉢が「角さん」です、どうぞよろしく。
 (ん?、右が助さんだったっけ?)



2002年1月14日:スキーボードに挑戦

 今シーズンは早くから雪が降り、昨年はスキー行けなかったこともあって、例年に増して心ここに在らずの毎日だったのですが、先日、県内のスキー場へ滑りに行ってきました。

 今年は以前からやってみたかったスキーボードに挑戦してみました。
 スキーボードというのは、ファンスキーともいい、普通のスキーの半分位の長さ(もっと短いのもありますが、僕のは90センチ)で、ストックは使いません。
 板が短いので安定性には欠けますが、飛んだり跳ねたり回転したりというスノーボードのような自由な動きができる・・・そうです。
 正直なところ、そういう曲芸以前に板の中央に乗らないと仰向けにコケて怪我をすると脅されていたので、途中で挫けた場合に備えて長いほうのスキーも持って行ったのですが、なんのなんの、一度もコケなかった。(ほんの自慢・・・です)

 板が短い分、誤魔化しがきかず、雪面がデコボコしていると思わずバランスを崩してしまいますが、スケートのように上半身を大きく振って雪面を蹴り滑ってゆくのは、エイトマンかサイボーグ009になった気分です。(古いなぁ、歳がばれるなぁ)
 若者に人気のスキーボードですが、僕よりもずっと年配のベテランスキーヤーも、結構、このスキーボードをやっていたので少し安心した。
 カービングスキーよりも、こちらのほうが定着しそうな気がします。
 まぁ、初日なので滑っていたのは緩斜面ばかりだったから、あまりエラそうに言えませんが、普通のスキーとはまた違った楽しみ方ができます。
 リフト待ちしているときにストックが欲しくなるけど、皆さんも一度やってみませんか?

 僕は30歳を過ぎてからスキー始めました。
 仕事を通じて知り合った仲間からスキーに誘われたことがきっかけです。
 「今更、スキーなんかでけへん!」という僕を、彼らは言葉巧みにこの「スキー地獄」に引き擦り込んだのです。
 それからというもの、冬の到来が待ち遠しくなりました。
 こんな楽しいものをなんで今までやらなかったんだろうと、今でも思います。
 だから、そんなチャンスを与えてくれた、KEBO、HIRO坊、KAOchanにはとても感謝しています。
 スキーを続ける限り、彼らのことを僕は忘れないでしょう。
 今シーズンからは、いよいよ長男もスキーに挑戦します。
 今回はオモチャのスキーですが、興味を持ってくれれば本物に変えてゆくつもりです。
 息子がスキーを通じて、勇気を持って自分から挑戦することの大切さと、それを達成した時の爽快さを体験してくれれば、父親の責任の数パーセントを果たせるような気がします。
 それにしても人との出会いというのは不思議なものですね、息子の人生にまで影響するんですから・・・。



2002年1月6日:おかげさまで開設一周年!

 皆様、新年明けましておめでとうございます。
 21世紀を記念して昨年の1月6日に始めたこのホームページが、おかげさまで一周年を迎えることとなりました。
 このような貧弱なコンテンツにもかかわらず、今年の年賀状には「時々見てるよ」というコメントがあり、アカウントもせいぜい2〜300どまりと思っていたところ、本日現在で1337にもなりました。
 これもひとえに皆様のお陰と感謝致しております。
 今年も「時々見にきてもらえる」(謙虚な)ホームページを作ってゆきます。
 そして今年こそ、あの幻のメコノプシスを咲かせたい!(まだ苗が届かない・・・)
 どうぞ今年もお付き合いの程、よろしくお願い致します。



2001年11月18日:ブラッドベリとラフマニノフの夜

 秋は僕の一番好きな季節である。
 街路樹も遠くに見える山々も紅葉に染まり、見上げる空は何処までも青く、そして高い・・・。

 秋は四季の中のひとつの季節ではあるけれども、夏から冬に移り変わろうとする過程の、つかの間の季節だ。
 秋は秋という季節の実体を捕まえようとする前に過ぎ去ってしまう。
 だから、秋はどこか切なくなるのではないだろうか・・・。

 大好きなレイ・ブラッドベリの古ぼけた本を引っ張り出して読み返す。
 古代遺跡をさまよう火星人、海の底からやってくる恐竜、燃え盛る恒星に向う宇宙船、止むことのない金星の雨、 そして、ハロウィーンの魔女とカーニバルの観覧車・・・。
 いつのまにか、そんなブラッドベリの世界に引き込まれてしまうのも秋だからだ。
 ハロウィーンなんて怖くて楽しいお祭りがある欧米の子供たちがうらやましい。
 ブラッドベリの話は長くなるので、またこの次の機会に。

 もうひとつ秋になると聞きたくなるのが、セルゲイ・ラフマニノフ。
 (冬はシベリウス、春はコープランド、夏はR・コルサコフ、何故?と問われると困るけど)
 「交響曲第2番」や「ピアノ協奏曲第2番」のように、ラフマニノフの音は、”じんわり”と心の敏感なところに 忍び込んでくる音楽だ。
 メジャーな曲だけど「パガニーニの主題による狂詩曲」の第18番変奏、アンダンテ・カンタビーレの甘く切ない メロディは、そのじんわりにトドメを刺して僕をメロメロにしてしまうのである。

 どうもクラシック界において、ラフマニノフの音楽というのは正統派クラシックには入れてもらえない傾向がある ようだが、キース・エマーソンがロック界における僕の憧れであるように、セルゲイ・ラフマニノフはクラシック 界の僕の憧れである。
 このホームページに載せてある僕の音楽の中の「アダージョ」という短い曲は、ラフマニノフみたいな音楽が作り たくて作った。
 この曲を書いたのも秋だった。
 ラフマニノフの曲のようにはうまくいかなかったけど、そこには沢山の秋の思い出が詰っている。

 今日も短い一日が過ぎ去り、秋の夜は誰かの溜息に満たされている・・・。



2001年10月 8日:キース・エマーソン

 誰にだってひとりぐらいヒーローがいる。
 人によってそれは野球選手であったり、坂本龍馬だったり、ウルトラマンだったりと様々である。

 ロックミュージシャンのキース・エマーソンは、十代の頃からずっと僕のヒーローである。
 70年代のロックシーンにおける彼の存在は、まさに革命的であった。
 今でこそロックバンドにおいてキーボードはギターと同じウェイトを持っているが、 60年代後半から雨後の筍のように生まれたバンドの、ロック=エレクトリック・ギターという 常識に対して、家具みたいなハモンドオルガンをフィードバックさせ、 巨大なムーグ・シンセサイザーからそれまで誰も聞いたことの無かった圧倒的で破壊的なサウンドを 生み出すかと思うと、一転してジャージーに、クラシカルに硬質なピアノを奏でる。
 そもそも彼こそがマルチ・キーボード・プレイヤーの先駆者であり、シンセサイザーが一般的に 知られるようになったのも彼の功績といえる。
 そしてなによりも重要なのは、クラシックに対する深い素養に裏付けられた彼の音楽のオリジナリティである。
 Niceを経て、彼が辿り着いたEmerson,Lake&Palmer(EL&P)は、 70年代のプログレッシブ・ロックシーンを代表するスーパーバンドであった。
 そういう思い入れにもかかわらず、1972年の来日以降、EL&Pは日本には来なかった。
 そのせいか、突然、僕の部屋にやってきたキースが僕のキーボードを弾き始める、あわてて録音しようとして 目が覚めるなんていう夢はしょっちゅう見た。

 そして18年後の1990年、JAPAN JAM’90でキースがやってきた。
 ところがチケットを手に入れ、指折り数えていた甲子園でのライヴは、台風の為、中止!
 テレビに流れた中止のテロップを見て、僕は子供のようにひっくり反って地団駄踏んだ。
 さらに2年後の1992年、今度はとうとう正真正銘、再結成したEL&Pが日本にやってきた。
 忘れもしない9月12日、大阪のチケットが取れず、名古屋まで出掛けていった。
 「Karn Evil#9」に始まり、アンコールの「Fanfare For The Common Man」 で終わったステージは、これまでに見たどんなバンドのライヴよりも素晴らしかった。
 なにしろ、キース・エマーソンが目の前でプレイしているのである。
 それ以上のどんな感動があるだろう!
 ライヴ終了後、会場の裏に3台のタクシーが停まっているのを見つけた。
 せっかく名古屋まで来たんだから、キースの顔を拝んでから帰ろうと20人程いたファンと 共に待つこと40分余り、裏口から出てきたキースは、そのままタクシーに乗り込むかと思ったら、 マジックペンを持ってこちらへ歩いてくるではないか!
 キースは僕の持っていたパンフレットとTシャツにサインをしてくれ、握手してくれた。
 彼は以外に小柄な人であったが、当時47歳の知的な目をしたイギリス紳士であった。
 握手した手が暖かく、これも思ったより大きな手ではなかった。
 夢じゃないか、嬉しいのを通りすぎて頭が真っ白になった。
 もし会えたら「僕はティーンエイジャーの頃からあなたの大ファンです!」と英語でいうつもりが 「あっ、あっ、ありがとう・・・。」としか言えなかった。
 握手しながら涙ぐむ変な日本人にキースは妙な顔をしていた。
 この時の感激が10年近くたった今でも忘れられない。

 キース・エマーソンを知らなければ、僕は今いったいどんな音楽を聴いているだろう。
 彼の音楽から音楽というものに対する考え方に随分影響を受けたと思う。
 キースは現在、ピアノコンチェルト第2番を製作中らしい。
 彼は自分の音楽に固執し、決してコマーシャリズムに走らない。
 彼は死ぬまでキース・エマーソンであり続ける。
 だからこそ、彼は僕の永遠のヒーローでなのだ。



2001年 9月30日:息子の初めての楽器と家宝の楽器

 次男の一歳の誕生日にトイザらスで、こんなかわいい楽器のおもちゃを見つけた。
 キーを叩くとピアノのようにハンマーが上についている鉄琴を打つ仕組みになっていて、 シンプルだけど綺麗な音がする。
 感心したのは鍵盤が4つしかなくて、C/E/G/C(ド・ミ・ソ・ド)になっているので、 2つ以上叩くと和音になる。
 小さな子供が、でたらめに叩いても心地良い響になるのである。
 楽器のおもちゃは沢山あるけど、ゲームマシンのようなエレクトリックで刺激的な音がしたり、 その音に合わせてライトが光ったりというようなものばかりで、 そんな音を毎日聞かされると親のほうが疲れてくる。
 子供たちがそんな音に囲まれていて良い影響があるとは思えない。

 このおもちゃは基本的には「チェレスタ」という楽器と同じ構造である。
 かのチャイコフスキーは、1891年にパリで当時発明されたばかりのチェレスタを いたく気にいって購入、この楽器を使った「こんぺい糖の踊り」(バレイ組曲「くるみ割り人形」) を書いている。
 当時、鍵盤楽器としてはオルガンの類か、ピアノ、ハプシコードぐらいしかなかったから、 始めてシンセサイザーを聞いたぐらい新鮮だったのだろう。
 値段も安かったので、おひとつ如何でしょう?

 僕自身、最近はアコースティックな音に惹かれているが、シンセサイザーらしいシンセの音は 捨てられない。
 このMinimoogは、10年ほど前に弟の友人から譲ってもらった。 (様々な人の手を経て、僕が4人目のオーナーらしい)
 1970年、ロバート・A・ムーグ博士によって作られたこの楽器は、 シンセサイザーという名前を初めて世界に認知させた、あまりに有名なシンセであり、 現在でも愛用しているミュージシャンは多い。
 時々「火を入れて」いる。
 電源を入れて10分ぐらい置いておかないとピッチが安定しない。 (それでも夏場は冷房、冬場は暖房してないと調子が悪い)
 2つのオシレータを微妙にずらしてフィルターで歪ませると、アンプが壊れそうな勢いで これぞMoog!という音がでる。

 発売当時、日本円で50〜60万円したそうだが、30年経った現在でも20万円前後で取引されている。
 そう、僕の唯一の「お宝」なのである。
 たとえ他のシンセを手放すことがあろうとも、この家宝は子から孫、孫から曾孫へと 大切に残して欲しいと思っている。
 もっとも、トランジスタなんか使っているから部品がなくなったら修理できない。
 最近、LSIで作られた復刻版Minimoogがあるそうだが、これはニセモノだよね。



2001年 8月19日:約束

 休日の朝、2階で寝ていると階段を上がってくる長男の足音がする。
 寝ているフリをして、突然、ワ〜ッ!と脅かすところから、お父さんの休日は始まる。

 大きくなるにしたがって、だんだん親のいうことをきかなくなってくる。
 特にかみさんがそれでイライラしてくると、とばっちりがこっちに来るのでたまらない。
 そこで、父と子の「約束」というのを作ることにした。
 最初は、約束1「ご飯をちゃんと食べる」だけだったのだが、やがて、約束2「お母さんのいうこときく」が追加され、約束3「すぐにおもちゃを欲しがらない」、約束4「弟の面倒をみる」と続き、更に約束5が追加されようとしたとき、はたと気がついた・・・・、これはまずいと。

 僕に対する亡き父のキーワードは「要領良くやる」というものでしたが、いまだに様々な面で要領の悪さがついてまわる。
 また、よく「お前はいつもカンカラカンになっている」ともいわれた。
 「ガンコで融通が利かない」という意味であるが、これは父のほうが重症。
 でもそういう「要領の良い生き方」に納得できず、いつも父に反発していた。

 これは父が亡くなってから気がついたことだが、この「要領よくやる」ということには、「もっと気楽にやれ」という意味だったのではないか。
 「人生は理想どおりにいかなくて当たり前、挫折したら、また違う道を歩き出せば良い」、出来の悪い次男に父はそんなことを言いたかったのではないかと思う。

 二人の息子に対する僕のキーワードは「楽しく生きる」にしている。
 人生をポジティヴに受け止めていって欲しいと思う。
 そして最近「約束」をひとつにした。
 約束1「元気にいっぱい遊ぶ!」・・・・今日は約束を守れたかな、んっ?



2001年 8月 5日:It’s just a Rock’n’roll

 最近、MDの録再機を買いました。(世間より随分遅いけど)
 先だって乗り換えた車でMDを聞く為なのですが、もうひとつの目的はレコードを録音する為です。
 10代のころから集めたLPがロックを中心に約150枚あり、いまだ手放せないでいます。
 名盤と呼ばれるものはCDで再発されていますが、マイナーなプログレ系ロックは二度と陽の目をみるはずが無く、僕にとっては貴重な財産です。

 そんな中の一枚がこれ、ハンガリーのEASTというバンドのHUSEGというアルバムです。
 ハンガリーですからジプシー音楽でしょうか、民族音楽を実にうまくとりこんでいます。
 そもそもプログレバンドは、自分独自の音楽と哲学にこだわるというのが信条なのですが、イギリスやイタリアのアーティストを聞きなれた耳には実に新鮮で美しい音楽が収められています。
 もっともハンガリー語で歌っているので、何を言ってるのかさっぱりわかりませんが。
 (昔バンドをやっていた頃、オープニングに、このバンドのインストゥルメンツをやったことがあります。)
 そして、このアルバムのジャケットが美しい!(クリックすると大きくなります。)
 CDだと、このジャケットの絵が小さくなってつまらない。
 でもレコードプレーヤーもいつ壊れるかわからないし、場所をとる3個のダンボール箱は狭い家には邪魔なんですよね。
 という訳で、今夜もせっせと録音しております。



2001年 5月 2日:The show must go on

 連休の前半が終わりましたが、皆さんはどう過ごされましたか?
 僕は3歳の息子を連れて、始めてアンパンマン・ショーなるものに行ってきました。

 会場は某遊園地の中のホールでしたが、ショーが終わると急に客が減ったので、皆さん、 これを目当てに来てるんでしょう。
 会場の入り口に、他のキャラクター・ショーのグッズの入った紙袋を売っていて、 ショー自体は、タダでやってるからなぁとしか思っていなかったのですが、ショーが始まって びっくりした。
 グッズの紙袋を持ったお姉さんが出てきて、席を立つなとか、アンパンマンが負けそうになったら、 みんなで応援しようとか言うのですが、最後に、この紙袋を持っている子供たちには、ショーの後で アンパンマンがサインをしてくれるのだと言うのです。
 う〜む、こういう状況を良い子の味方、アンパンマン自身はどう理解しているのだろう?
 所詮、市場経済の中にあって、いくら正義の味方であっても、こういう営業活動は必要だと 割りきっているのだろうか?
 しかも自分じゃない、他のキャラクターのグッズにサインをしなければならないという点を。
 そういえば、本家のスーパーマンなんか、本業では食べていけないので新聞記者のバイトを しているし、バットマンは大富豪だから、そういう心配をせずに道楽でヒーローができるが・・・。

 しかも、30分程のショーの中で、アンパンマンはあまり出てこないで、見せ場らしき見せ場も無く、 バイキンマンとかドキンちゃんなどの脇役が殆どの時間を埋めている。
 フィナーレの後も、あれだけ子供達の声援を受けていたにもかかわらず、アンパンマンは、 さっさと退場してしまうのである。
 明らかに子供達を欲求不満に陥れ、サイン会に引き込もうとする作戦である。
 ショーが終わると、この辺の事情を良く理解している親達は、すぐさま、子供の手を取り、 出口へ向う、「振り返るんじゃない、ショーはもう終わったんだよ!」

 息子の手を引いて帰る途中、振り返ると、ステージには黙々とサインをしているアンパンマンと、 これを嬉々として見ているバイキンマンの姿があった。



2001年 4月15日:われはロボット

 ASIMOをご存知ですか?
 以前から、HONDAがロボットを作っていることは知っていましたが、 このASIMOの歩行映像は、「ほんまは、誰か入ってるんちゃうの?」と 思わずにはいられないほど人間の動きに近いものでした。

 このような人間に近い形態をしたロボットは、あまり欧米では開発されておらず、 日本が最先端を走っています。
 それは、キリスト教では、神が自分の姿に似せて人間を作ったゆえに、こうした 人間に似たものを作ることは、神への冒涜だと考えられているからだそうで、 HONDAはローマ法王に、ロボットの開発について意見を求めたとか。
 わざわざ苦労して、ヒューマノイド型ロボットを作らなくてもいいんじゃないと思われる かもしれませんが、人間と共存してゆくロボットというのは、人間の形状をしていないと、 人間の道具を使って、人間の住居で人間の支援ができないのです。
 (僕は、寝たきり老人になって、大きなペンチが幾つもついたようなヘビーな機械に オムツを換えて欲しくない。)
 今世紀中には、車を買う感覚で、こういうヒューマノイド型ロボットを買う時代が くるのでしょうか。

 でも、僕が子供の頃から好きなロボットというのは、このASIMOぐらいまでで、 これ以上、人間臭くならないほうがいい。
 「スターウォーズ」に出てくる金ピカのヤツじゃなくて、「宇宙家族ロビンソン」の フライデーとか、「禁断の惑星」のロビーとか、ああいう、いかにも「わてはロボットどす!」 という風采のヤツが好きです。
 そして、そういう時代が来ても、ロボットは子供たちの友達でいて欲しいですね。

    10 ASIMOのホームページ



2001年 4月 4日:春きたりなば

 ふと気づくと、もう桜の咲く季節になりました。
 この季節、仕事は忙しいわ、花粉症がでてくるわで、憂鬱なこともあるけれど、 まぁ、春なんだし、少しはウキウキしたいところです。

 庭など、一週間見てなかったりすると、びっくりするぐらい変わっています。
 植えてある花がどんどん大きくなり、放置してあった鉢から芽がでていたり、 妙なところで忘れていた花が蕾をつけていたり、本当に驚かされます。
 庭に出て「なっ、花って、凄いやろ。」と息子に生命力の強さを説明するのが楽しいです。 (おいおい、そのムスカリを引きちぎるんじゃない!)
 2001年の春ページの撮影も着々と進んでおりますので、乞うご期待ください。

 でもその前に、僕の後ろ髪を引っ張るのは、積雪70cmの某近隣スキー場。
 今年はスキーを始めて10周年、毎年必ず滑っていたのに、今年は一度もスキーに行ってない。
 だから、僕には春は来ない。
 このまま、次のシーズンまで、ずう〜〜ううううっと冬です、ううっ・・・。



2001年3月18日:徒然なるままに

 やっと、製作中のままだった、このページを作る時間ができました。
 このページは、日本最古のエッセイストとして尊敬する吉田兼好の「徒然草」のように ウェットで機知に富んだ雑文が・・・書ければいいなぁ・・・と思っています。
 このページのご感想などは、掲示板のほうに頂ければ大変うれしく思います。
 




TOPページに戻る

進む→