●徒然なるままに Part2

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2003年8月24日:風に吹かれて

 全国の小さな町村が合併して市に再編成するという市町村合併の話が進む中、新しい市の名前をどうするかという議論も盛んである。
 山梨県の南アルプス市のようにユニークな名前を選んだ町もあるけれど、昔からの我が町の名を残そうとあえて合併の道を進まない町や村も決して少なくはない。
 経済的な豊かさだけが住み良い町をもたらすわけではないと住民投票で過半数を占めた住民たちの声が聞こえてくるようである。

 独身の頃、よく一人旅をしていた。
 その旅の途中に立ち寄る地方都市には、どれも同じような駅のターミナルに同じような商店街が連なり、その隣にあるホテルには同じようなベットと同じようなスタンドのついたライティングデスクがあった。
 まるで地方都市はこうでなければいけないというマニュアルがあるのではないかと思うぐらい似通っていた。
 でも、ホテルを出て地方道を進み、気まぐれに立ち寄った小さな町や村には、ありきたりではあるけれども思い出に残るものが沢山あった。
 道端の道祖神、廃校になった小学校を使った郷土資料館と館長さん、雷雨が去り突然現れた虹、道を聞いた農作業中のおばあさん、道に迷った末に行き止まりの岬で見た夕日、宿場町の小さな宿・・・・。
 ずっと後になって、何かのきっかけでその町や村の名前を聞いた時、これらの光景が懐かしく思い出される。
 十数年後、地図にはどんな地名が載っているだろう。
 もし僕の知らない町の名前になっていても、僕の見てきたものは残っているだろうか?
 それともあのホテルがあった町のように無表情な地方都市に変わってしまうのだろうか?
 僕は通りすがりの旅人に過ぎないのだけど・・・。



2003年3月15日:スキー場、受難の時代?

 仕事柄、とにかく帰宅が遅い。
 最終電車になることもしばしばである。
 特に冬場は忙しい時期になるので、土日の休みもままならないことがある。
 当たり前だがスキーは冬しか出来ないので、この板ばさみは辛いものがある。
 かつては週末の京都駅の構内はスキーを担ぎ、キャスターのついたバックをゴロゴロ引っ張っている若者で溢れていた。
 だから、そういう連中がうらやましくてたまらなかった。
 ところが近頃、ホームに入ってくるシュプール号(JRのスキー専用列車)はガラガラなのである。

 近年、スキーは人気の無いレジャーなのだそうである。
 ある分析によれば、練習を重ねて努力しないと楽しめない、しかも遠くへ出掛けないと出来ない遊びよりも、すぐに近くで手軽に楽しめる遊びのほうが若者に好まれるからだという。
 おかげで頑なにスノーボードを拒んできた硬派のスキー場が、背に腹は代えられないとばかりに次々とボーダー達に門戸を開いている。
 時代の流れとはいえ、コースの真中にどっかりと座り込んでいるボーダー達に閉口しているスキーヤーは納得できない話だろう。
 でも無くなるよりマシだ、実際、経営難で閉鎖に追い込まれたスキー場は決して少なくないのだから。

 さて、今シーズンの僕はというと、シーズンも終わりの3月15日にやっと滑りに行くことが出来た。
 今年は3月になっても気温が上がらず、滋賀県でも山間部で雪が降った為、僕のホームグラウンドのびわ湖バレイでは積雪180センチというコンディションに大満足の半日であった。
 (朝7時起き、9時にゲレンデに立ち、午後3時過ぎには帰ってくるというお決まりのコース)
 掲示板にも書いたが、このびわ湖バレイが今年限りで閉鎖になるのではないかという噂があり、個人的にかなり気にしている。(注)
 ここがなくなったら、スキーなんてできなくなる!
 いったい何を楽しみに冬を乗り切れというのだ!
 出勤の電車の中から見える比良山系の雪を見ながら、ただ祈るばかりである。

(注)びわ湖バレー閉鎖の報道については、びわ湖バレイが否定しています、一応。



2002年12月24日:ハッピー・クリスマス

 12月に入ったある日の深夜、帰宅のタクシーのラジオから、ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」が聞こえてきた。
 そうか、もうクリスマス・シーズンなんだ…。


       そう、クリスマスなんだよ
       今年のきみはどうだった?
       一年が終わり、また新しい一年が始まる
       そうさ、クリスマスなんだから きみにも楽しんで欲しいんだ
       身近な人も愛しい人も、老いも若きも
       みんなでメリークリスマス そしてハッピーニューイヤー!
       なんの不安も無く 良いことばかりあるように
       一緒に祈ろうじゃないか

       そう、今日はクリスマスだよ
       弱き者、強き者、富める者、貧しき者
       世界は確かに間違っている
       黒い人も白い人も 黄色い人も赤い人も
       すべての争いをやめようじゃないか
       みんなでメリークリスマス そしてハッピーニューイヤー!
       なんの不安も無く 良いことばかりあるように
       一緒に祈ろうじゃないか

       戦争は終わる、きみが願いさえすれば
       戦争は終わる、今こそ・・・


 LOVE&PEACEは遠い昔の御伽話・・・。
 ねぇジョン、君がこの歌を残して死んでから何年たったのだろう?
 世界は何も変わっちゃいない。
 悲しいくらい人間は何も学んでこなかったよ。
 家を、家族を、自由も奪われ、道端にうずくまる人達は今もいっぱいいるし、正義の旗を掲げて戦場を駆け抜ける若き兵士は、二度と故郷には帰らない。
 モノクロームに写し出された幼い兄弟の目は、希望どころか怒りも絶望すらない、まるで深い井戸のような黒い目だ。
 ねぇジョン、生き残った僕らはどうすりゃいいんだろう。

 タクシーが市街地を抜ける頃、子供達のコーラスの余韻を残して、歌は終わっていた・・・。



2002年9月21日:ふたつの月の光

   ドビュッシーの「月の光」は大好きな曲だ。
 この曲はオリジナルのピアノ曲よりも富田勲氏のシンセサイザーによるバージョンを先に聞いた。
 非常に色彩豊かなアレンジだっただけに、いまさら原曲のピアノなんかと思いきや、やはり元祖というか本家というか、オリジナルはさらに素晴らしい曲である。
 ピアノという楽器がこんなに表現の豊かな楽器だったのかと再認識した。
 よくドビュッシーのピアノ曲は、モネの絵と重ね合わせて静かなイメージで論じられるが、僕はもっとバリエーションのある幅の広い音楽だと思う。
 家族が寝静まった深夜、ひとり静かに聞いていると、いつのまにか戸外に出て月の光を浴びているような気分になる。

 子供の頃、雨戸を開けて座敷で寝ていた。
 夜中にふと目を覚ますと庭から青い光が座敷に差し込んでいた。
 真夏の、満月の夜だったと思う。
 庭は満月の青い光にこうこうと照らされ、昼間とはまったく違う世界になっていた。
 そのあまりの神々しさに僕は布団から抜け出せず、身じろぎもしないで庭を見ていた。
 今思えば、あれが現実のことだったのか夢の中のことだったのかわからない。
 あんなに明るい満月の夜が現実にあるのだろうか?
 体は眠っているのに知覚だけが目覚めている、そんな奇妙な感覚を今でも覚えている。
 ヨーロッパでは月の光を浴び続けると気が狂うといわれる。
 ドビュッシーの「月の光」を聴く度に思い出すのは、そんな心象風景だ。

 もうひとつ、月光という好きな曲がある。
 ベートーベンではない、鬼束ちひろ、の月光である。
 日本の音楽事情にはまったく疎い僕だが、TRICKという深夜ドラマのテーマ曲としてオンエアされた時、この歌にとても惹かれた。
 しかも若干21歳の、今時の女の子と知ったときは驚いた。
 〜I'm god's Child,この腐敗した世界に落とされた〜、こんなフレーズが書けるなんて!
 彼女の歌は詞ありきで、詞に合わせて曲を変えることがあっても詞を変えることはないそうだ。
 詞は夜中ひとりでいると「降りてくる」のだそうである。
 感性である。
 技術以前に感性というものは持って生まれてきた部分が大きい。
 40を過ぎたオッサンの感性は磨いても磨いてももう二度と光ることはない。

 奇しくも今夜は中秋の名月。(本当に偶然!)
 月に人類が降り立ってから随分経つが、今も昔も見上げる満月の光は変わらない。



2002年9月1日:あいきゃん、のっと、すぴいく、いんぐりっしゅ!

 京都に勤務しているせいか、よくガイジンサンの観光客に声を掛けられる。
 彼らはサンジュウサンゲンドーとか、ニジョウきゃする、とかへ行くにはどうすれば良いのかと聞いてくる。
 困ってしまうのである。
 僕は英会話が出来ない以前に(長年京都に勤務しているにもかかわらず)京都の観光地への道順を知らないからである。

 こういう場合でも英語がわからないなりに一応努力はしている。
 年配のガイジンサンほど、又、いわゆるネイティヴ・スピーカーと呼ばれる人たちほど早口でよくわからない。
 若くて英語圏の人じゃないほうがよくわかる場合がある。
 京都駅で「Can you speak English?」と声を掛けてきた青年は、スイスから来たと言っていた。
 彼の英語はゆっくり丁寧でよくわかった。
 また男性よりも女性のほうがわかりやすい。
 ニューヨークの大道芸人のデビッドさんは、ブルートレインよりも新幹線のほうが安いという僕の説明が理解出来ずにキレてしまったが、彼の連れの女性が「通訳」してくれて、機嫌を取り戻したので助かった。

 ドイツへ行った時、ホテルの従業員やインフォメーションの係員ぐらいしか英語が話せないが意外だった。
 みやげ物屋で、I want......と言いかけただけですぐさま、「あいきゃん、のっと、すぴいく、いんぐりっしゅ!」と実にわかりやすいイントネーションで返事が返ってくる。
 白人ならみんな英語を話せると勘違いしている日本人は僕だけではないと思う。
 実際、ドイツで英語が話せる人の割合は日本と同じぐらいだとか。
 小さな版画の店で店員さんとお互い「はぁ?」と首を傾げ、苦笑いしながら絵を選ぶのは楽しかった。

 これからの日本人は大人も子供も英語ができないとグローバルな時代には生きていけないらしい。
 大人はトレンドな英会話教室へせっせと通い、日本語も理解できていない未就学の子供にまで英会話を習わせる。
 でも僕にはわからない、なぜ今英語教育がそんなに急務なのだろう?、日本語教育を差し置いて・・・。
 英語が必要ないとは言わない、でも、そんなことより日常語としての日本語に支障がでてきているのである。
 世の中が、どんなにIT化されようとも、我々は日本語で考え、日本語で会話し、日本語の文書を読み書きする。
 サラリーマンにあなたの部下に欠けている能力は?と聞いたら、十中八九、文書力、会話力と答えるだろう。
 文書が書けないのも、人と上手に話せないのも活字を読まないからである。

 言葉は文化である。
 日本人が日本語を使えなくなるということは、日本人としてのアイデンティティを失うことである。
 英語が話せたとしても、自分の国について何も話せない日本人が増えることだろう。
 今の日本は、そんな「けったいな」国際人を作ろうとしている。
 自国の文化どころか、自分自身のことさえ話せない国際人なんか、世界の人々は受け入れてくれるはずがない。



2002年8月8日:父のこと

 8月8日は父の命日である。
 6年前の夏に道端で倒れ、意識を回復しないまま、数日後の夜、病院のベッドで亡くなった。
 その夜は琵琶湖の花火大会で、湖が一望できるその病室からは、空を明々と染めるフィナーレの花火が見え、屋上にいる人達の歓声が聞こえていた。
 真面目な父にしてはえらく華々しい最後であった。

 大抵の息子がそうであるように、僕もまた成長するにつれ、うるさい父を敬遠するようになった。
 そして20代の終わりには、あることがきっかけで殆ど口をきかなくなっていた。
 今思えば、あまりいい息子ではなかったなと思う。
 僕が結婚した直後のことであるが、新居の玄関が殺風景なので、ホームセンターでベゴニアの苗とプランターを買ってきた。
 当時、花のことなど何も知らなかった僕は、実家で父に「裏の畑の土少しもらうよ」と言うと「うちの土を持っていくな」と言いながらも、自ら土に肥料を混ぜてベゴニアを植えてくれた。
 父と二人で花を植えるなんて、子供の頃に戻ったようだった。
 そんなふうに父と向かい合うのは何十年ぶりだっただろう。
 花を植えてもらいながら、子供の頃、父が好きだったことを思い出した。
 その日が父と話した最後となった。

 父が生きている間に、それも最後の最後になって、そういう気持ちを思い出せて本当によかったと思っている。
 二児の父親となった今、なにかにつけ、息子たちに向ける自分の視線に亡き父の視線を重ねてしまう。
 誉める時、叱る時、ただ黙って見守る時、父がどんな気持ちで僕を見ていたのかがわかったような気がする。
 そして僕は父が亡くなって、やっと本当の意味で大人になれたように思う。
 息子は父親に反抗し、自分の意思を貫いてゆくことで成長してゆく。
 父親がいなくなって、やっとその呪縛から放たれる。
 遅かれ早かれ僕の息子達も「くそ親父、元気でな!」と言い残して巣立ってゆくのだろう。


 父が若い頃に祖父と喧嘩した時、祖父は父にこう言ったそうだ。
 「どんなにおまえに説教したところで、死ぬのは俺が先だ。」
 そう、結局、自分の道は自分で選択し、自分の足で歩いてゆかなければならないのだから。



2002年5月3日:Robby The Robot

 僕が小学校の低学年の頃、父が兄と僕に「子供の科学」(だったと思う)という本を毎月買ってくれた。
 僕はこの本の宇宙や未来の世界を描いた絵が大好きで何度も繰り返し見てはわくわくしていたものである。
 それは、まだ人類が月に到達していない時代、イマジネーションが科学技術という魔法によって現実になってゆこうとする楽天的でエモーショナルな時代であった。

 その中で特に僕が惹かれていたのが、ロボットであった。
 少女と向き合ったロボットの写真の下に「あらゆる知識を持ったロボットは子供達のどんな疑問にも答えてくれます。」と書いてあった。
 その写真のロボットこそ、古典SF映画の傑作「禁断の惑星」にでてくるロボット、ロビーだったのである。
 最近、DVDでこの映画を改めて見たのだが、確かにある種の古臭さはあるものの、この時代に良くこれだけのものが作れたなと感心させられる。
 なにしろ、1956年製作、僕はまだ生まれていない!
 この映画は特撮技術もさることながら、宇宙の果ての謎の惑星、宇宙船の亜空間飛行、ロボット、先住民の残した高度なテクノロジー、そして潜在意識(イド)が生み出す怪物といったSFならではの仕掛けが、しっかりした脚本の上に巧みに配置されている。
 だからこそ46年を経ても傑作として残っているのだろう。

 DVDを買ったついでに、ロビーのオモチャも買った。
 息子に見つからないように、ASIMOと一緒に本棚の奥に隠してあって、夜中にこっそり取り出しては楽しんでいる。
 食事の時にはミカン箱とミルクの缶で作ったロボットを隣に座らせていた時代が懐かしい。
 それにしても僕が憧れていた輝かしい未来というのはどこへいったんだろう?
 いつから僕らは未来について語らなくなったのだろう?



2002年5月1日:Lonesame Train

 先日、京都に来られていた版画家の小澤摩純さんに初めてお目にかかる機会があった。
 会って話してみると物腰の柔らかいやさしい方なのだが、それでもアーティスティックな雰囲気に気後れし緊張してしまった。

 小澤さんの絵との出会いは、11年前に遡る。
 その頃、知人に贈る絵を買いに行った画廊で、とても魅力的な一枚の版画を見つけた。
 それはタロットカードを連想させるような少しダークな絵で、青空をバックに虹のかかった円錐形の山があり、その山のトンネルを蒸気機関車が煙を吐きながら抜けてくる。
 その山の隣には巨大な空豆が・・・・。
 これを描いた画家に謎掛けをされているような不思議な印象の絵だった。
 翌日、会社が終わるとその画廊へ飛んで行って初めて自分の為に絵を買った。
 その後は、別の作品を見掛ける機会もなく、この作者はどんな方だろうとずっと気になっていた。

 ところが数年前にインターネットで小澤さんのホームページを見つけ、ここで新しい作品を求めたのをきっかけに時々メールでお付き合いして頂いている。
 11年前に買った版画(Lonesame Train)は小澤さんの初めてのシルクスクリーンの作品だそうであるが、これに比べると今の作品は沢山の明るい色彩で描かれている。
 童話をモチーフにした版画のほかに、絵本の挿し絵も沢山描いておられ、どれもファンタスティックな美しい作品ばかりである。
 百聞は一見にしかず、是非、小澤さんのホームページを見ていただきたい。

10 小澤摩純バーチャル画廊



2002年3月30日:吹いてゆく風のバラッド

 先日、病院で係り付けのドクター(美人女医!・・・と宣伝する約束になっている)に「こないだバイクの免許とったんや。」と自慢された。
 以前から僕も取りに行きたいと思っていると言うと「行ったら?、簡単やったよ、でもまぁ、バイク乗るよりも自分の足で歩こうなっ、痩せなあかんやろ、はい、今日は採血しとこか!」と言われた。
 「バイクに乗ると風になるんや、風に!」、採血をしてもらっている横からまたそういうことを言う。
 この忙しいドクターの何処にそんな時間があるのだろう?

   もう20年も前になるが、片岡義男の小説にハマっていた時期があり、バイクの免許を取ろうと思いつつ、原付で我慢してきたものの、「風になる」とか聞くとまたムラムラと20年前の血が騒ぎ出すのである。
 おかしな話だが、免許も無いのに買ってしまったバイクに乗り、警察に見つかったらどうしようとびくびくしながら、しかし街の中を気持ち良く疾走しているという矛盾に満ちた妙な夢を20年経った今でもみることがある。
 そもそも夢というものは矛盾に満ちているから夢なのだが、バイクに乗るという行為が僕自身の中でどこか反モラル的な象徴であり、だからこそバイクを駆って気ままに疾走することが快感となって夢に出てくるのだろう。

 原付だが大事に乗っているバイクがある。
 HONDAのMOTORAという50ccのバイクである。
 「モトラ?、ああ、会社の近所のうどん屋が出前に使ってるやつか。」と中型バイクを駆る静岡の友人には笑われ、実家に置いてあった頃は家族から「耕運機扱い」されていたが、不便な場所に住んでいる今は貴重な足である。
 僕は原付でもちゃんと作業用の皮手袋をして乗っている。
 というのも、以前、転倒した時に右手の手の平を一皮剥いてしまったことがあるからだ。(思い出すのもおぞましい)
 最近、オイル漏れを見つけて近所のバイク修理をやってるところで直してもらったのだが、修理してくれた若い店主も昔、同じバイクを持っていたが手放したことを悔やんでいた。
 修理の終わったバイクを取りにいったら隅々までピカピカにしてくれていて感激した。
 こんな原付バイクでも少しだけ片岡義男の小説の気分に浸れる。
 さて、暖かくなったことだし、何処かへ出掛けてみるかな?、風になって!



2002年3月28日:Raining All Over The World

 1月22日、元CAMELのメンバーだったピート・バーデンスが亡くなった。
 昨年、脳腫瘍を克服し中断していた音楽活動を再開したと聞いていたが、転移していたのか肺癌で亡くなったそうだ。
 親しい友達を失ったようで淋しい。
 キーボーディストとしては、どちらかといえば地味なタイプのミュージシャンではあったけど、CAMEL在籍時、又、その前後のソロ活動においても、シンプルだけど心に残る良い曲を書いてきたと思う。
 イギリスのミュージシャンらしい、ある種の絶望感と、それを知ってなお前向きに生きてゆこうとする姿勢は、まさに彼のスピリッツであった。

 彼のアルバムはひと通り持っているけど、CAMEL脱退直後のソロアルバム「HEART TO HEART」(日本では未発表)に入っている「Raining All Over The World」は大好きな曲だ。
 ”世界を覆う雨が僕らを引き離してしまったけど、また再びめぐり合うことができるよ”(大意)と彼は歌うけど、彼はもう戻ってはこない。
 雨の降る日に路肩に停めた車の中でこの曲を繰り返し聞いていた。
 人生には沢山の出会いがあり、その出会いの数だけ別れがある。
 その別れの幾つかには、避けられない悲しみや憎しみや痛みが伴うこともある。
 別れは唐突にやってきて褪せた思い出だけを残してゆく。
 車のフロントガラスを流れ落ちてくる雨が誰かの頬を伝う涙のように思える。

 そして旧友ミック・フリートウッドの助けを得て製作された「THE ART OF LEVITATION」(これも日本では未発表)は、彼の死にあわせてリリースされた。
 死を予見していたのだろうか、自主製作盤のようなこのアルバムには、彼が自分の子供達と友人へ宛てた遺書のような、でもとても穏やかな音が収められている。
 その中の彼の娘のボーカルで再録音されたCAMEL時代のこの曲は、まるで彼の墓碑銘のようだ。

     僕らは生き そして逝く
     流れゆく河のように それは誰にも止められはしない (Spirit of the Waterより)



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